no name 7話

バイト初日の出来事

 明くる日。午前中の講義を終えて家に帰ると、ベットへ横になった途端につい寝てしまった。ハッと目が覚めてスマホを見ると、時間は午後五時だった。

 良かった、寝過ごすところだった。ヒロムは六時頃って言ってたし……バイト行かなきゃ。

 急いで着替えて1階へ下りると、エプロン姿のお母さんが廊下に立っていた。

「あら?奈緒出かけるの?」

「うん、これからバイト」

「バイト?」

 今日からバイトとは伝えていなかったので、「私、居酒屋でバイトすることになったから」と話すと、お母さんは少しビックリした。

「居酒屋って、奈緒大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。早苗の知り合いだから」

「そう。なら安心だけど」

 サナは何度も家に泊まっているので、親に信頼がある。私の方が信頼ないかもしれないけど。

「じゃあ、行ってくるね!」

「帰り気をつけるのよ」

 「うん」と返事をして、玄関を出た。そのまま自転車にまたがろうとすると、いつもと違う感覚が体に伝わる。

 あれ?後ろタイヤがパンクしてる……。

 急いで自転車から降り、スマホで時間を確認して走ることにした。歩いたらburstまで一時間かかっちゃう。急がなきゃ!

 でも、私は運動も得意ではない。それでも歩くより少し速いペースで、六時前に駅前まで来れた。

 ハァ。もう限界……ヒロムごめん。

 バイト初日から遅刻なんて最悪だなぁと思いながら、ふと私の目はネオの姿を探してしまった。でも、いつもの場所にネオはいなかった。

 昨日、彼の名前を初めて知った。ネオ……家族は……いないんだよね……。

 走る体力を失った私は、そこから歩いて居酒屋burstを目指した。歩きながら、なんとなくあの場所を振り返ってしまった。

 そんなネオの居場所が、レイの作ったno nameというバンド……。あ、私メンバーになっちゃったけど、ネオは知らないんだった。でもレイは自由参加って言ってたし、サナもいるからなんとかなるかな。

「あれ?」

 道に迷った。そういえば、ヒロムのburstって場所どこだっけ?確かこの辺だったはずだけど……どうしよう……お店わかんなくなっちゃったよぉ。

「ねぇねぇ、今一人?」

「え?はい、一人ですけど……」

 突然、背後から二人組の若い男性に声をかけられた。

「じゃあさ、これからどっか行こうよ」

「え……」

 これってナンパ?うわぁ……困ったよぉ。

「すみません、私これからバイトがありますので……これで」

「いいじゃん」

 頭を下げた時、茶髪ロン毛に腕を掴まれた。逃げられない……。

「一日くらいサボっちゃえよ」

「嫌です。離して下さい!」

「嫌がる顔もかわいいねー」

 掴まれた手を振り必死に逃げようとしたその時、「うぐっ」という声と「おい!」と二人組が怒鳴る声が耳に入る。掴まれていた手が離れるのを感じて目を開けると、茶髪ロン毛の男性がお腹を押さえてうずくまっていた。

 はっ!?

救世主?

「いって……」

「テメェ、いきなり何すんだよ!」

 怒鳴った短金髪ピアスの男性が、私の後ろを見ていた。そう気づいた瞬間、私を殴るように右腕が上げられる。

 いやっ!そう思って頭を抱えたその時、視界を誰かが横切った。「うごっ……」という声と共に、短髪ピアスの男性は顔を殴られて道に倒れた。

 私が目にしたのは、黒シャツに黒レザーの長ズボンをはいた男性の背中だった。

 この人……ネオ!

 驚いていると、振り返ったネオは私の手首を掴んで走り出した。

「え?ちょっと!」

「……」

 ネオは何も言わず、私は引かれるままに走るしかなかった。でも、100メートル程走って二回曲がったところで、足が悲鳴を上げた。

「止まって~!」と、もつれて転びそうになると、止まったネオの背中におでこをぶつけた。

「あたっ!ハァハァ……助けてくれたのは感謝するけど……もう……走れないよ……」

 すると、ネオは手を離して歩き出した。

「ハァ、ちょっと待って……」

 話しかけても、やっぱりネオは無言。それでも私は、ネオの足を止めたくて両手を膝に置いたまま叫んでしまった。

「私、あなたのバンドに入ったんだからね!」

 ネオがピタッと止まった!

 少し嬉しくなって近づこうとしたその時、ネオのそっけない一言で私は足を止めた。

「そ……っ」

 そっ……て、それだけ?みんなが作ってくれたno nameが大切じゃないの?

 助けてもらったのに、そんな事は忘れてなんだか無性に腹が立った。ムカッ!

「あなたネオでしょ?名前があるのにちゃんと伝えないから、バンド名がno nameになったのを知ってるの?」

 私の声に、ネオの背中が少し上がってから下がる。あれはため息だ。

「俺はバンドに入ったつもりはない。だからバンド名なんてno nameでいいだろ?」

「入ったつもりないって、レイはネオのバンドだって言ってたよ?」

「レイが勝手に言ってるだけ」

 うー、素直じゃない!

「もういい!私行くから」

 すると、ネオはズボンに入れていた右手を上げた。何よ、その手!もうちょっとマシな挨拶できないかなぁ……まぁそういう人じゃないのはわかってるけど、挨拶してくれただけマシ……あ。

「ちょっと待って!」

 歩きかけたネオが足を止めた。

「あの……ヒロムのお店の場所わかる……かな?」

 無言。やっぱり聞いてないよね。って、ネオ行っちゃうの?

「ねぇってばぁ!」

 歩くの止めて聞いてよぉ……。

 困ってガクッと肩を落としたその時、「こっち」と指差したネオの声に、私は勢いよく顔を上げた。

 すぐに前を歩くネオに追いついたけど、なんとなく斜め後ろから少し距離をおいてついていくことにした。

 顔を覗きこむと、普段長い前髪で見えないネオの目が、歩く震動と風で時折確認することができた。

 やっぱりめんどくさそうな顔してる……でもよかったぁ。ネオがburstの場所を知ってて。

 そうホッとしたのもつかの間。この無言が辛い……仕方ない!

「ね、ネオ。今日は路上ライブをやらないの?」

 反応なし……まだまだ!

「あの、昨日の打ち上げにいなかったけど、どうしてヒロムのお店を知ってるの?」

「超能力」

「うわぁ!」

 ビックリしたぁ……。まさか返事がくるなんて。って、違う!超能力とか、私からかわれただけじゃん!

「あっそう。超のうりょ……く」

 そう言いかけた時、急にネオが立ち止まった。今度は何?

 ネオの視線を追うと、そこにはburstの看板があった。着いたんだね……アハハ。

「ネオありがとう。あ、そうだ。後、助けてくれたことも……」

 って、じゃ!くらい言えないの?

 ネオはburstの前を歩いて通りすぎた。本当、何考えてるのかサッパリだよ……。

 道の角へネオの背中が消えた後、改めてburstの看板を看て周りの景色を確認。昨日は夜で全然わからなかったけど、これで場所は覚えられた。

 慌ててスマホを取り出すと、時間は六時を余裕で過ぎていた。ヤバイなぁ。ヒロムって怒ると怖そうだし……。

 意を決して寿司屋のようなドアを横へカラカラと開け、中をそっと覗きこむ。

ネオの秘密

「こんばんわ……」

「へい!いらっしゃ、おーナオか!いやぁ、マジで来るとは思わなかったぜ」

「え……?」

 笑顔のヒロムに拍子抜けした私は、その場で固まった。はめられた……。

「おいナオ、なにしてんだ?早く入れよ」

「だって、私もno nameのメンバーだからって昨日ヒロムは言ってたよね……」

 すると、ヒロムはゲラゲラと笑いだした。

「だははっ。な~んだ?そんなこと気にしてたのかよ。バイトとno nameは関係ねぇぞ?あれは俺のジョークだ」

「じょ、ジョーク!」

 なにそれ!じゃあ私の決意は空振り?

「帰る……」 「ちょっと待ったぁ!」

 もぉー!ネオといいヒロムといい、一体この人たちは何なのー。

「なぁナオ。せっかく来たんだからさぁ、手伝ってってくれよぉ。給料はちゃんと払うからさ」

「でも……」

「ならこれならどうだ?バイトしてくれたら、ネオの秘密を教えてやらなくもない……んだけどぉ?」

 ネオの秘密!

「ハッ!」

 しまった!ヒロムがしてやったりの顔してる。また騙された……。

「う……ん」

「よ~し、その顔は決まりだな!ほれナオ、エプロン」

「あ」

 つい投げられたエプロンを受け取ってしまった。でも、信じられないけどネオに二人組から助けてもらったのは事実。そのネオの秘密なんて言われたら、私じゃなくたって気になるよぉ。

「動きやすそうだし、その上からでいいからな!」

「うん……」

 エプロンつけてしまった。

「ねぇヒロム。本当にこんな格好でいいの?」

「まぁ……メイド服着せる訳にはいかねぇしなぁ」

 その顔、冗談に聞こえない……まさか本当はネオの秘密なんてないんじゃ……私、またははめられたのかも。

「ん?なんだよその顔。まさか疑ってるのか?ちゃんとバイト代払うって!」

「そうじゃなくて……」 「いらっしゃいませー!」

 お客さんだ。

「お?マスター、可愛い子入ったね」

「どうもどうも。ウチの看板娘のナオです。以後ごひいきを」

 ヒロムって口が上手いなぁ。真面目そうなサラリーマンの男性とも、違和感なく接してる。

「この子、あれもしかしてマスターのこれかい?」

 こっ、小指って!

「いやぁ、わかっちゃいました?」 「そんなんじゃないですー!」

 恥ずかしい。やっぱり帰りたい……。

「アハハ、なんだ違うのか。マスターはモテそうなのになぁ」

「いやいや。こう見えて俺、実は奥手なんですよ」

「そうなのかい?」

『アハハ!』

 二人はすごく楽しそう。それより、私はどうすればいいんだろう。

「ナオ、冗談だからな」

 笑顔のヒロムに、私は小さく頷いた。だから冗談に聞こえないんだけど……。

「そういえばマスター。今日はあの生意気な男の子はいないの?」

 え?

「そおっすねぇ、あいつは非常勤というか非常識というかなんで……」

「訳ありかぁ。マスターもよく我慢してるよ」

「まぁ、人生色々ありますから」

 この話って……ネオの事だよね?だからネオはburstの位置を知ってた……じゃあ今日はサボり?それともお休み……なの?

 首をかしげていると、入り口のドアがガラガラと音を立てた。まさかネオ!?

「いらっしゃいませー。空いてる席にどうぞー。ほれナオ、案内してくれ。お?ナオ?」

「あ、うん。こちらへどうぞー!」

 お客さんだった。よくわからない複雑な気持ちを振り払い、来店した三人組の男性を机の席に案内した。でも、ヒロムの言ってたネオの秘密はおそらく本当にあったんだ!なんか、やる気出てきたよ。

「えーと、とりあえず生中三つ」

「かしこまりました、少々お待ち下さい」

 よーし、バイト頑張ろう!

 私はササッとメモを取り、カウンター奥に立つヒロムの下へ。

「ヒロム、生中三つ!」

「おいおいナオー、そこはマスターだろ?」

「あ……そっか。アハハ、ごめん」

「アハハ。初々しくていいじゃないの、ねぇマスター」

 カウンターのサラリーマン男性に、また笑われてしまった。

「さすがお客さん、やっぱりわかっちゃいますか。だからスカウトしたんですよ。ほれナオ、生中三つ」

「はい……」

 少しうつむきながら、三つの生中を両手で持った。完全にヒロムのオモチャだな……私……。

「お待たせしました」

 注文の品を置くと、時間も時間のせいかお客さんが次々に来店。業務をこなすのに精一杯で、いつのまにかネオのことは忘れていた。

「いらっしゃいませー!ナオ、頼む」

「あ、はい!こちらの席へどうぞ」

 ヒロムはテキパキ仕事をこなす。バイト初日の私は精一杯だ。この店って、暇じゃなかったのかなぁ……忙しい……。

「ほい、持ってって」

「はいっ!ハァ~」

burstの二階

 ふと壁にある時計を見ると、この時すでに二時間が経過していた。私は注文を終えると、カウンターに両手を置いて大きく一息ついた。

「お?どうしたナオ。疲れたか?」

「うん、ちょっと。ねぇヒ……まっマスター。こんなにお店が忙しいのに、ネオは今日バイトに来ないの?」

「あー、やっぱり気づいてたか。ネオなら、外出て階段登ればいるんじゃねぇかな?」

「んん!?」

 ネオが……burstの二階にいる?

「マスター、私外します!」

「ちょ!おいナオ!」

 店を飛び出した理由はわからない。あまりの忙しさに、とにかくネオに一言言いたい気持ちだった。

「すいませーん!注文いいっすか?」

「へっ、へい!」